可能性と言うけれど

自分の可能性を信じて!

という言葉をよく耳にしますし、自分でもよく使います。
この 「可能性」 という部分について、子供たちに良くする話がありますので、ご紹介します。

例えば、塾の前を歩いているお婆ちゃんがいたとします(推定75才)
このお婆ちゃんが、何が原因は不明だけれど 「どんなことでもやれる!」 という考え方に変わり、ゼロからコンピューターを学び、経済やマーケティングを学び、健康維持にも精力的に取り組み、10年後に起業し、長生きしながら会社経営をするという可能性はゼロでしょうか?

例えば、いつも学年最下位の子が、何が原因かは不明だけれど 「どんなことでもやれる!」 という考え方になり、授業は鬼のような集中力で望み、空いた時間は全て勉強し、職員室に通いつめて先生に質問しまくり、とにかく没頭して半年後に学年トップになる可能性はゼロでしょうか?

例えば、今は安定した会社員として働いしているが、実は大きな夢があるという人が、何が原因かは不明だけれど 「どんなことでもやれる!」 という考え方になり、仕事の後や休日を使用して勉強し、コツコツ資金をため、シュミレーションを繰り返し、20年かけてその夢を実現する可能性はゼロでしょうか?

人は、大抵のことは実現できます。
ところがそれを 「しよう」 と考える人はごく一部です。
それは、生まれ持った才能や能力の問題ではなく 「本人ができると思っているかどうか」 で決まります。
「できると思っているかどうか」 で決まるとすると、あとは 「自分がどう思いたいか」 と思っているかです。
(ちょっと複雑ですが、、、)

以前観て感銘を受けた、南アフリカのラグビー・ワールドカップを題材にした映画 「インビクタス〜負けざる者たち〜」 の中で、実に27年間もの間投獄されたネルソン・マンデラ大統領の書いた「詩」を紹介して、今日のブログ記事とします。

私を覆う漆黒の夜
鉄格子にひそむ奈落の闇
私はあらゆる神に感謝する
我が魂が征服されぬことを
無惨な状況においてさえ
私はひるみも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ
血を流しても
決して屈服はしない
激しい怒りと涙の彼方に
恐ろしい死が浮かび上がる
だが、長きにわたる脅しを受けてなお
私は何ひとつ恐れはしない
門がいかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと
私が我が運命の支配者
私が我が魂の指揮官なのだ

あなたの運命の支配者はだれですか?
あなたの魂の指揮官はだれでしょうか?

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